​石井漠を支えた妻の美談(1936年)

2016.05.11

日本のモダンダンスの祖、石井漠氏が成功するまでの苦労を夫人の立場から記した美談。
主婦層にむけたもので、舞踊の専門的な内容は一切ありませんが、妻の八重子さんの出自から、女子音楽学校の生徒であったこと、結婚当初の家賃が3円50銭ということや、国活や東亜キネマで女優をしていたなど、雑学は満載。


戦前の雑誌から
夫が世に出るまで 内助の苦闘涙の実話
三円五十銭の間借で手内職 −新舞踊界の明星石井漠氏夫人−

婦人倶楽部 1936年(昭和11年)1月号
講談社 定価75銭

結婚のころ
 石井漠氏が八重子夫人と結婚して、浅草田原町のおでん屋の二階に間借に新所帯をもったのは、今から二十年前のことでした。
 八重子さんは神田の二等郵便局長 大場寅太郎氏の長女で、当時神田の女子音楽学校の生徒でしたが、結婚と同時に学校もやめ、世話女房になりきって間代三円五十銭というみすぼらしい一間を愛の巣として無名の漠氏と貧乏所帯の第一課を始めました。
 八重子さんは実科高女の出で、裁縫が得意でしたので、夫君の知り合いの女優さん達の着物の仕立を引き受けて、殆ど定収入のない家計を助けていました。
 間もなく漠氏は浅草の日本館へ立てこもり、日本で初めてのオペラを上演したところ、次第に浅草の人気を集中し、連日満員つづきの大当りで、歌劇黄金時代の先駆となったのです。併し、金銭に恬淡な漠氏は、もとより有利な契約など結んでいなかったので、相変らずの貧乏暮しでしたが、見るに見かねた友人達が、館主と交渉してくれて、漠氏は急に四百円もの月給をとるようになりました。

洋行
 前途は洋々と展けました。いざ、これからというとき、突如大きな試練は夫妻の上に襲いかかって来ました。
 十日替りの出しものに、振りつけ、稽古、舞台と休む間もなかった漠氏は、かりそめの風邪から肺炎を併発して重体に陥ってしまったのです。入院五ヶ月余、夫人の身を刻むような看護の結果、やっと漠氏は全快しましたが、僅かの蓄えは勿論消えてなくなり、残ったものは根岸興行部からの莫大な借金ばかりでした。
 漠氏は全快後日本館へは帰らず、自ら創始した新舞踊を大衆に理解させるため全国巡業の旅に出ましたが、まだまだその時期でなく、漠氏の芸術を認めてくれる人は少なくて、
『いやどうも、裸体踊とは珍妙な。』
 くらいで簡単に片づけられてしまうのでした。漠氏はそれが残念でならず、
『自分の踊りを外国の者に見せて真価をたしかめたい。何としても一度は本場を踏んで来なければ……』
 と、それが、寝ても醒めてもの念願となりました。そのうち、競争者の立場にあった高田雅夫せい子夫妻が先手をうって洋行する。漠氏はいよいよ焦るばかりでした。
『洋行もできない。俺はもう駄目だ、このまま埋もれてしまうのだ。』
 漠氏の落胆ぶりを見ている八重子夫人は身をきられる思いで、百方金策に奔走するのでしたが、女の細腕では問題が大き過ぎます。
 すると、ある日、漠氏が喜び勇んで帰って来ました。今の日活東京撮影所長 根岸寛一氏が土地と家屋を抵当にして漠氏の洋行費を作ってくれたのです。
 大正十一年十一月十二日、漠氏は八重子夫人の妹 小浪さんを伴って晴の鹿島立ちをしました。小浪さんはその時十七歳、義兄について舞踊を習い始めたばかりでしたが、舞踊で立とうと決心している妹のために、八重子夫人が特に頼んで同行させて貰ったのでした。
『私と坊やとは、どんなにでもして暮してゆきますから、留守のことは決して御心配なさらないでね。』
 その時、長男の歓ちゃんはお誕生をすぎたばかりでした。
『有難う、では行ってくるよ。』
『お姉様、行って参ります。』
 汽車は動き出しました。良人と妹が車窓に振るハンカチは、見る見る小さくなって消えました。歓ちゃんを抱っこして、伸び上り伸び上り見送る八重子さんの瞳は、涙に濡れていました。

お蝶夫人の如く
 留守宅のことは心配するな、と良人を励ましたものの事実は明日のお米にも困る始末。彼女は古道具屋をよんで、家財道具は勿論、永井郁子さんについて声楽を習っていた夫人が、何よりも大切にしていたピアノまで売払って神田の実家へ寄寓しました。そして、子供を里の母に見て貰って、自分は巣鴨の国活撮影所へ女優として入り、翌年の夏には新劇協会に加わって有楽座の公演に『ジュボンチの三人娘』で主役に扮したりしました。その間にも裁縫や手芸を励み、良人の洋行費の一部に借りた高利貸への利息を払うために、あらゆる工面をしなければなりませんでした。
 そこへ、ベルリンにいる漠氏から手紙−−−洋行後、後援会から送ってくれる筈のお金がとどかないので、衣裳を買うにも困っているというのです。そこで八重子さんは人の勧めで一口八十円という画会を作り、自分から画家の間をかけずり廻って、事情をうち明けて頼んだところ、誰も快く無料で書いてくれる約束が出来ました。−−−これで良人へお金が送れる−−−と喜んだのも束の間、とたんに例の関東大震災でした。画会はその混乱にまぎれてうやむやに立消えとなってしまいました。
 八重子さんは泣くにも泣かれず、焦土の街頭に出ておでん屋などをやり、それで儲けた血の出るようなお金で、良人と妹のために衣裳の布地を買ってベルリンに送りました。
 その後、彼女は兵庫県六甲山麓の東亜撮影所に入り、再び銀幕にまみえることになって、母と歓ちゃんをつれて都落ちをしました。そして、お蝶夫人のように、見えない海の彼方の良人の帰りを、ひたすらに待ちわびるのでした。

輝やく帰朝
あらゆる生活の苦難と闘いながら待つこと三年、漠氏と小浪さんはヨーロッパからアメリカを廻って、大正十四年四月意気颯爽と帰朝しました。漠氏の舞踊は各地で名声を博し、殊にアメリカの巡業では素晴らしい歓迎を受けたということでした。
 悲壮な出発の日とはうって変った喜びの日、勝利の日、我家へ帰ると小浪さんは早速トランクをあけて衣裳を出し、
『お姉さん、あたしの踊り見て頂だい』
 と、日本キモノで『夢見る』という洋行中の新作を踊って見せました。
 ふり袖をひるがえして、優艶な肉体の線が描き出す美しい律動−これが三年前の、あの妹だったろうかと疑うばかりでした。妹の努力、良人の稽古が、どんなに激しい真剣なものであったかも偲ばれて、八重子夫人は留守中の辛苦も忘れ、感激の双眸をぬらすのでした。
 帰朝後の漠氏兄妹は、築地小劇場での新作発表会に嵐のような人気をよんだのをきっかけに、一躍わが新舞踊界の第一人者として、ゆるぎなき地位を確立し、自由ヶ丘に建設した広大な舞踊研究所は、多数の研究生で溢れるほどの盛況、漠氏の名声は高まるばかりでありました。
 併し、八重子夫人の苦労はまだ、絶えませんでした。というのは漠氏が地方巡業中に眼を患い一時は失明を伝えられたこともありました。その時の八重子夫人の嘆き−彼女は長い間寝もやらず看護に尽し、たとえわが生命を縮めても、良人の眼を救い給えと、神かけて祈るのでした。
 この、いみじき妻の願いに、八百万の神々も憐み給うてか、さしも難治の眼病もこの頃殆ど癒えて、漠氏は花々しく捲土重来し、益々冴ゆるその至芸にファンを魅了しています。
 日本の舞踊界を今日の盛況に導いたものは漠氏であり、漠氏をして今日あらしめたのは、げに八重子夫人の不撓の、涙の援助でありました。


<旧字体、旧仮名遣いについて>
旧字体及び旧仮名遣いは、新字体に改めました。また、現在一般的に読みづらいと思われる漢字についても、ひらがな及びカタカナに改めました(伯林→ベルリンなど)。
ただし送りがなは、現在一般的に使われているものとは違いがありますが当時のままに記載しています(暮らし→暮し、上がり→上りなど)。

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