桑野通子メモ #1 「桑野通子に訊く −彼女の過去と現在に就いて-」

2016.10.10

大久保たつを
蒲田 1935年(昭和10年)6月号


淡水色うすみずいろのアフターヌーンが、その日のやわらかい春の陽射の中に立った桑野通子の姿を、殊のほか美しく見せた。
N画廓のスペシャル・ルームの百号位の大きさの裸体画の下で、私は彼女と向い合って座っているのだ。窓からの陽が、彼女の上半身を、非常に巧みな効果を出して照らしている---。

「あなたは、その職業、つまり女優になって、一等うれしい、と思ったことはありますか…」
非常に唐突だが、現在の心境を語る糸口だと思って訊いて見た。
「そうですねえ。今まで、スウィート・ガールをやっても、ダンサーをやっても、毎日、簡単に仕事とだけしか思いませんでしたし、それで、仕事が終れば、仕事のことなんか全然考えなかったものですけど、今度のお仕事は、休んで遊んでいる時だって考えさせられるんです。たとえば、バアで、女給さんが煙草をのんでいる時、その指にはさむ、挾み方とか、み方、吐き出し方、それに、その間々に、相手のお客に話しかけてる時の顔の動かし方、眼の張り方そんなものを、非常に注意して見るようになった、と云ったことなんです。その気持ちは、電車に乗って女の人を見ても、芝居を見ても、絶えず一つ変った型をもった女の方だったら、一つ一つ注意して見るようになったんです」
彼女を通りすがりでも、電車の中でも見た女性達は、大いに警戒する必要がある。
「そして、毎日仕事をしていても、次々にどうして自分を活かすか、とそればかり苦心しています。それだけに、それが完成した時のよろこびは、とっても大きいんですわ」
選ばれた仕事、と云うものが、この年若い女性に、こんな大きい悦びをもたらすものであることに、感心した。

「恋愛をしたことはありますか」
「恋愛、ときっぱり云い切ってしまうほど強いものはしたことはないんです」
「ダンサー時代にも?」
「ええ、ダンサー時代は、非常に職業意識が強く働いてるんで、とても、そんな暇がないんです。それは、そとで男の人と夜おそく歩いていたりしていても、すぐくびにされちまうんですのよ」
自堕落だ、と云われるダンサーの生活の中に、こんな大きい戒がある。
「それに、あたしは小さい時から、かなり苦しい家庭生活をして来てるんで、とても理性が勝ってるんです。めくら滅法に、恋愛の中にとび込んで行く、なんて云う勇気はとてもありませんわ」
理性の勝った顔、つまり、彼女のあの眼の強い張り、顎のしまった感じが、あきらかにそれだ。

「じゃあ、誘惑をうけたことありますか?」
「ええ、誘惑と云えば、日常生活の中に、誘惑のない日って、一日もありませんわ。ダンサー時代、踊ってる間でも、お茶のみに行こう、ドライヴしないか、御はんをつき合い給えなんてしょっちゅうに云われますわ、でも、お茶くらい、毎日来て下さる人達のためには、一緒にいただいてもいいんですが、それ以上、とてもお付き合い出来兼ねます。これはダンサーなんて云う仕事をしているものは、誰でもそうだろうと思いますわ」
彼女はそう云って、次の言葉をつけ加えた。
「ダンスホールに来る男って、皆随分きざで、いやな人みたいに思ってらっしゃる方も相当あるんですけど、決してそんなんじゃありませんのよ」
「じゃあ、とても大きく、ひどい誘惑をうけたことあります?」
若い女性が一人で職業戦線に立っていて、そうした誘惑に直面して、どう自分自身を処理して行ったか、と云うことは、一つの人生教訓にもなり、興味のある問題ではないか。
「一度、こんなことありましたわ。…これ云っていいかしら…」
少しためらっていたが、急に何か可笑しそうに微笑みながら、
「ある三十過ぎの男の方が、私のお友達の紹介で、ポートレートをとって、それを雑誌に載せて宣伝してやるって、云うお話で、写真をとりに行きました。もう夜の十一時すぎなんです。で、写真をとり終わって、帰ろうをしますと、食事をしよう、と云われるのです。私、お腹も空いてたんですけど、何だか頭の痛かったし、お断りすると、どうしても、と云った、とうとう自動車に乗せられて、何でも隅田公園付近の小さい料亭みたいなとこに連れて行かれたんです」
「待合ですか?」
「ええ、多分、そんなところだろうと思うんです。そして、ひどく、いろいろと云われたんですのよ…」
「結局、どうなったんです…」
彼女は、前後になって、笑いながら云った。
「私、始め泣いて見せたの。大して泣きたくもなかったんですけど…そしたら、慰め顔に尚更しつこく云われるんで、とうとう、油断を見すまして、力一杯、その人の胸をついてやりますと、引っくり返ったんで、そのすきに、表に飛び出したんですのよ。とても面白かったわ」
彼女は五尺二寸に、十三貫二百位のがっちり引き緊った体をもった女性だ。或いは必死の力をこめたその一撃は、普通の男だったら勿論ひっくり返るにちがいない。
「そんな男の人には、話をしたって、訳を云ったって、とても通らないのです。だから、あたしのお友達で、いきなり、横っ面を一つうんって云うほどぶって、ひるむ隙に飛び出して帰った、って女の方ありますわ」

桑野通子の毅然とした態度は、新しい女性の一つの型である。この少女らしい香匂かおりさえ持っている彼女が「東京の英雄」のスツリートガールや「彼と彼女と少年達」の女のような男を知りつくした女になり得ると云うことは、奇跡のような気もする。
「だって、あたし、そのために、本牧のキヨホテルにだって、吉原にだって、玉の井にだって、二度ずつ位見学に行ったことありますわ。でも怖いわねえ、一寸…」
彼女はそのことに就いてそう答えた。そして、その「見学」と云う言葉が如何にも可笑しかったので、二人で笑ったことであった。
窓からの陽射しが、彼女の帽子の端を照らしていた。二時間も話し込んだらしい。


<旧字体、旧仮名遣いについて>
旧字体及び旧仮名遣いは、新字体に改めました。また、現在一般的に読みづらいと思われる漢字についても、ひらがな及びカタカナに改めました(伯林→ベルリンなど)。ただし送りがなは、現在一般的に使われているものとは違いがありますが当時のままに記載しています(暮らし→暮し、上がり→上りなど)。

<掲載について>
著作権法における、団体名義の著作物=公表後50年で保護期間終了という解釈のもと記事を全文掲載していますが、​問題がありましたら こちら からお知らせいただければ幸いです。

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