平和の村大原・八瀬を訪ねて 小原女の生活を聞く座談会(1936年)

2017.11.19

 白の脛巾はばきに白の手甲、白のゆもじに白のうちかけと、白づくめの清らかさに、やさしき絹房ゆらぐ細紐、紺の木綿の裾をソッとからげ、二巾半の絣の前掛キリリと締め、頭に黒木(薪)を載せて、草鞋の足どりも軽く歩む古風な風俗を今に伝えて床しき小原女!
 その小原女の里、大原八瀬は、京都市外高野川の清流に沿った風景絶佳な山峡の村でその昔、平家の末路と共にこの地に隠棲遊ばされた建礼門院の侍女、阿波の内侍の姿を見習って、いつしかこれが小原女風俗となり、七百年の今に伝えられたものと言われて居ります。
 写真上は薪に花を折り添えて、京の町に商ぎに出る小原女、下は小原女郷土柴人形。

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黒木(薪)を頭に載せ、うち連れて里に下る乙女の群。
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日溜りの凹地へ腰を下してホッと一息!働くものにのみ許された健康と明朗とが溢れています。
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石垣を利用して作られた草花を折取って、商い籠に飾り入れる乙女達。
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往復六里の路を遠しとせず、幾山坂を越えて日々京の町へ商いに!
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嫁入りの衣装は高価な丸帯や訪問着よりも、襷や前掛や手甲を数多く持って行くことが何よりの自慢です。乙女達は昼の仕事が終ると、楽しい嫁ぐ日を夢見つつ夜遅くまで、前掛や手甲のお裁縫に専念いたします。
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大きくなったら、本当の小原女さんになる可愛い豆小原女。
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昔から小原女の育てた子供は丈夫だというので、今もなお京大阪の上流家庭から、真に丈夫なよい子にと彼女等は育児を託されています。写真は藁でつくられた暖かいフゴに眠る幼児。
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戦前の雑誌から
「平和の村大原・八瀬を訪ねて 小原女の生活を聞く座談会」
婦人倶楽部 1936年(昭和11年)1月号
大日本雄弁会講談社 定価75銭

御出席の方々
八瀬村処女会幹部  川上美代子
同  上田なを子
大原村役場 吏員夫人  西川ヤス
大原村処女会会長   中川菊江
大原村名物しば漬本舗  坂後きくゑ
大原村処女会会員  山田ウタ
同  飯場たつ

 京都の北郊、大原と八瀬の両村は、昔から『小原女の村』として知られて居りますが、この小原女は、一面、驚くべき勤労の婦人であります。それは、あの重い薪を頭に載せて往復六里の道を京に稼ぎに出たことでもわかります。それが自動車の発達で今は少くなったかわりに、村の田や畑や山で、牛を使い薪を樵り草を刈って男以上に働いています。
 記者は、京を後に高野川の清流に沿う山峡の道数里を辿って、はるばるこの別天地を訪れました。それは大原名物の深い靄の朝で、田園は収穫時の多忙な真最中でありましたが、特にお願いして大原、八瀬の二村を代表する小原女さんたちに集まってもらい、この座談会を催しました。

男まさりの働きぶり

記者 一年中で一番お忙しい時に、お繰り合せのうえ御出席下さいまして有難うございます。今日は、皆さん方のありのままの生活振りを、何の御遠慮もなく、どっさり打明けて戴きたいと存じます。では先ず、男よりもよく働くといわれる、皆さんの働きぶりからお話し下さい。
西川  お金持の家の娘さんも、貧しい家の娘さんも、みんなおんなじように働きます。村で一か二かといわれる家のお嬢さんでも、手拭をかぶり草鞋をはいて働いています。
川上 働かないと、村の笑いものになるのですもの……。
上田 それに、貰い手だってないし……。
記者 では結婚の第一条件が、この村では『よく働く』ということですね。
西川 器量のよしあしで小町娘がきまるのではのうて、働きのよしあしできまります。よう働きさえすれば、器量は悪うても、村第一の評判娘になれます。
記者 『働き小町』というわけですね。(一同大笑)
山田 それに若い者だけでなく、お婆さんかて、ようお働きです。
坂後 わたしの母など六十三になりましたが、まるで三十代の人の元気で、一生涯を働き通すのだと申しております。
飯場 この村ではどんなに年寄っても隠居するということがありません。
川上 敬ったつもりで、『御隠居様』などというと、叱られます。(笑声)
記者 そんなに女の人が働いて女天下にはなりませんか?
中川 どんなに女がよう働いても、決してそんなことございません。
西川 先に立って働くからというて、わがままをしたり、偉そうにしたりなどいたしません。ことに昔から礼儀作法をやかましう申して居ります。

田園に出て牛を相手に立働く小原女
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頭に物を載せる風習

記者 ずいぶん大きくて重そうなものを、頭に載せて平気で歩いていますが、あなた方でも、あんな薪なんか、頭にお載せになるんですか?
山田 イタダキますとも!(載せることを、ここでは、イタダクと言います。)
記者 戴く!上品な言い方ですね。
飯場 戴いてよう歩かんようでは、それこそ、さっき上田さんがお言いやしたように、貰い手がありませんわ。(大笑)
坂後 以前には、十二貫の荷が戴けなんだら、お嫁入りの資格なしだったと、いつも母が申します。
中川 今かて、十二貫や十三貫は平気どすわなあ。
上田 小学校の生徒で、七八貫ぐらい。
川上 一人前の女になって、十五六貫というのが平均でしょうか……。
西川 力の強いおなご衆でしたら、二十貫位は平気です。戴くだけなら、それ以上重いものでも戴けるでしょうが、そのままで遠くまで歩くとなると、やっぱり二十貫まででしょう。
記者 二十貫といえば大変ですよ。お米一俵が十六貫だといいますから、それから考えても都会なら、男の人でも、とても頭の上へ上げる方は少いでしょうからね。
西川 子供でも、三つぐらいになると、ママゴトするかわりに、戴きゴッコをするんですから、習慣で、こつを上手に呑み込むのでしょう。
坂後 わたしの母は、十六の歳から、十七貫の薪を戴いて、往復六里、京へ売りに出たそうです。
記者 戴くものの種類は、決まってるのでしょうか?
飯場 柴(薪)が第一ですが、そのほかなんでも戴きます。
山田 稲束でも、藁でも、農具でも、野菜でも、お酒徳利でも、お醤油樽でも……。
西川 時には、乳母車を赤ちゃんごと戴くなんてことも……。
記者 便利ですね。ひとつ戴くこつを教えて下さいませんか。
上田 力が強いばかりでも駄目です。
坂後 戴いてしまって、歩き出したらもう占めたもので、それはラクです。頭の前の方で中心をとり、腰を、左右に、降り降りして歩くのどす。
西川 あんな腰振り歩きを普通の着物を着たおなごさんがおしやしたら、けったいでしょう。
坂後 それこそ、腰振り気狂いやいうて、大騒ぎになりますやろう。(一同大笑)

草刈籠の中に立つ愛児を頭に載せて、一里位は歩けますという母親です
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小原女の正装と略装
(上)は昔そのままの小原女姿で、この衣装は村の旧家に保存されているものを拝借いたしました。(下)はその略装であります。
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泥棒も病人も無い村

記者 大原八瀬の自然の眺めは、ほんとうにもの柔らかで、南画でも見るようですが、人情も、淳朴なのでしょうね。
上田 その点では、どこの農村にも劣らないのだろうと思います。
中川 犯罪というものは全く無いと申してもよいかと存じます。
記者 泥棒なんか入りませんか?
山田 そんなもの、見たことも、聞いたこともありません。
記者 小作争議などは、むろん無いのでしょうが、水喧嘩などは?
飯場 それ、なんのことどすの。
記者 結構ですね。では伝染病なんかは?
坂後 そんなもの、見ようと思うたかて。見られやしません。
西川 お医者は、一人も居りません。
記者 昭和の御代に、京の近くで医者のない村があるなんて−−−。
川上 でも病気なんか無いんですから、お医者の必要はありません。
記者 八瀬にも無いんですか?
上田 急病が出来れば、京都から来ますが、病人なんて、あらしませんもの。
飯場 このごろ大原では、三日目に一度ずつ、修学院の方からお医者が役場まで来られますので、その時に、具合が悪いと思うようなものは、役場で診察を受けることになっていますが、お医者に手を握られたというて、大騒ぎする人があります。
中川 でも、村から都会に出ている人が病気にかかって帰って来るのがあるようになりました。
記者 どんな病気で?
西川 脚気が一番多いようです。ここからは、京都へ女中奉公にかなり出ていますが、そんな人が、夏になると脚気になって帰って来ます。でも、村へ帰れば、立ちどころに癒ってしまうんです。

日本一の子育ての里

記者 ここは昔から『里子の村』として有名なようで、育児については定めし参考になることがいろいろあろうと思われますから、お子様をお持ちの方々に、御経験談をお願いしましょう。
西川 ここの里子は、孤児院の子供を預かるというようなのではなく、京や大坂の上流の家庭の赤ちゃんばかりです。八瀬大原は血統血すじがええというので……。
坂後 里子はたいてい一年から三年位で、ならし一年半位のようどす。子たちのお衣装類は親御の方から届けられて、養育費が、一年に四百円位のものもありますが、三百円から二百五十円位が普通でしょう。
記者 赤ちゃん一人に一ヶ月二十五円ぐらい掛けるというわけですね。
西川 みんな我子以上に可愛がって、大切に大事にお育てやすので、情愛がそれはそれは深うて、いよいよ親御さんのところへ返す時には、里親も子供も泣き別れで、いこう辛い目をおしやすようどす。
記者 赤ちゃんは、あのフゴで育てられるのですね。
坂後 そうどす。
川上 わたしたちも、あの中へ入って、大きくなったんです。
記者 あの中へは、何日目位から?
坂後 七八十日目位から入れます。早いのでは、五十日目位から入れる人もあります。そしてヨチヨチ歩き出す二つ位まであの中で育てます。
記者 フゴの中は、どんな具合になっているのでしょうか?
西川 底に、ハカマといって、藁の一ばん軟らかい所を敷きます。その上に、藁ぶとんを敷いてやります。体のぐるりは、モスリンなどの温かいおふとんで巻いてありますが赤ん坊は、足を前に出して座っているわけです。
記者 どこの家にも、クッションのような小さいおふとんが、幾つも幾つも蓆(むしろ)の上に干してありますが、あれが藁ぶとんですね。
坂後 赤ん坊が生れる前には、二十も三十もいろいろな布で、あれを拵えます。
西川 おむつをしますのに、決して、おまたをしません。柔らかい子供の皮膚に、おまたは擦れて可哀そうですから。
記者 ゴムのおしめカバーなんかは?
西川 使いません。藁ぶとんが敷いてあれば、少しぐらいおしっこが澤山出ても、足がぬれたり、着物にまで通ったりいたしません。藁ぶとんが、カバーの代りをしているわけです。
記者 フゴに入れて育てる間は、あまりおんぶやだっこはなさらないのでしょうね。
西川 お昼の御飯の時に、一寸出して抱いてやりますが、おむつを代えてやる時のほかは入れたままで、いつも日当りのよい所に出して、充分に日光浴をさせます。
記者 お乳を飲ます時は?
西川 フゴに入れたままで、乳房をふくませます。

税金のいらない村

記者 農村として、どんな点が、他所と変っているのでしょうか?
川上 八瀬村は、税金がいりません。
上田 有難いことには、わたしたちの村は、昔から免じられているのでございます。
記者 税金のいらない村!それにはどんな由来いわれがあるのですか?
川上 あらましのことを申しますと、後醍醐天皇様が叡山に行幸ぎょうこう遊ばされたとき、八瀬童子が駕與丁を承ったり、弓矢をとって道中をお固め申上げたりして、無事に延暦寺へ供奉した功によって、年貢諸役一切を免除の、有難い御沙汰をいただいたのだそうであります。
上田 それから明治天皇まで歴代の天皇様からも、御代かわりには同じく地租免除の御沙汰を賜って参ったのだそうでございます。
川上 明治天皇様の御代には、確か慶應四年三月(明治元年)に戴いたそうでございますが、そのころ村の人は、毎夜毎夜寝みますときは必ず枕もとに、草鞋、提灯を離さないで京都に急変があったときの用意をし、御維新の時には、みな御所に詰め切って、宮中の御用を奉仕し、東京に御遷都の際には、東海道五十三次の駅路を鳳輦の駕與丁として供奉申上げたということでございます。
上田 御大典の時、八瀬童子が駕與丁として奉仕いたしますことは、世間によく知られていることと存じます。
記者 光栄の村でございますね。
川上 土地は狭うございますが、こうした由緒のある村で働いていることは、わたし達仕合せに思って居ります。
上田 でも今年の風水害で、山は崩れ、道は壊れ、家も橋も流れて、とても酷たらしい目に遭いました。その復興作業に処女会が出ています。
川上 九月の十五日から毎朝、五時の念仏堂の鐘を合図に、サルパッチ(モンペ)姿で高野川の河原に集り、川の中に入って砂利ふるいをしています。

昔ながらの珍らしい結婚風俗

記者 近年まで、このあたりでは、略奪結婚の奇習が行われたとか聞いていますが、本当でしょうか?
飯場 略奪なんぞいう言葉は、こお(恐)おすわ。それは、好きな娘さんを、親の許しを得ぬうちに、男の人が自分の家に連れて来てしまうことをいうのどす。
川上 わたしの方ではお仲人さんはご夫婦揃った二組ということになっています。お仲人さんの男の方二人が交渉役となって、娘もらいうけの話をすすめます。
上田 以前には一切他所の人と縁組みしないことになっていましたが、大正時代からチョイチョイ、他所の人との縁組もされています。
記者 結婚当日の晴着には、お金をかけますか。
川上 八瀬の花嫁さんのお支度は、紺無地木綿の着物に御所染の帯、友禅の細帯と絣の前掛け、角かくし代りに紺の縫の手拭、襷を手にとって白足袋に藁草履です。

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坂後 大原も昔気質のお家は、やっぱり昔の木綿の花嫁衣装ですが、このごろでは、裾模様のお嫁さんも、ちらほら出て来ました。
記者 荷物はどんなですか。
西川 衣装の多いのは自慢になりません。
飯場 襷と、前かけと、手甲や脛巾はばきなどが多いほど、自慢になります。
中川 前かけ五六十枚、襷五六十本、そのほか労働用の甲掛、脛巾はばき、サルパッチなど、なんでも五六十ずつ拵えます。
西川 ですから話がきまると、一年ぐらいかかって、せっせと縫う娘さんもあります。
上田 十四五になると、もうソロソロ縫い始める、気の早い小娘さんもあります。(一同大笑)
飯場 サルパッチでも手甲でも、学校の先生が縫い方をお知りやないので、新しい先生には、生徒がお教えするのどす。
川上 いよいよ婚礼の当日になりますと、お嫁さんは当座に必要な品物だけ風呂敷に包んで持ってゆきます。その他の荷物は、母親が生きている間はズット里方の母親が預かっているのです。ですから、嫁いでから外出する時には、一旦実家に帰って着がえをして出かけます。
上田 お嫁入りだといって、箪笥や長持が運ばれることはないのです。
西川 大原もそうです。それで、盆と正月には二晩泊りぐらいで実家に帰り、母親に手伝って貰うて、自分の着物の洗張や縫いかえをします。

都会生活をどう思うか?

記者 華やかだとか、憧れの的だとか言われる都会の生活を、皆さんはどうお思いですか?
飯場 こんな山の中ですから、娯楽なんぞのうて、そんな点では、淋しいです。
記者 ラジオは?
西川 ぜいたくだと言うて誰もひきません。
山田 蓄音機のある家が、四五軒位。
中川 年一回男女青年団の主催で、映画界を催しますが、これなんか一番待たれる娯楽でしょう。
記者 山の中ではお魚が食べられないでしょうが、京へ出られた時には、ご馳走があれもこれも食べたいと思いませんか。
山田 わたしは、おさしみを、食べてみたいと思います。
飯場 わたしは洋食なんぞ、西洋臭うていやどす。
山田 食べ方勝て、わからへんし。(大笑)
中川 わたしは、うなぎどんぶりとか、おすしが一番好きです。
記者 女学校を卒業された方は、村で何人ぐらい?
西川  今日こんにちまでに、十人足らずでしょう。
記者 街の職業婦人になっている人がありますか?
中川 看護婦さんと産婆さんぐらいでしょう。
記者 東京へいらした方はありませんか。
川上 ここにいる者ではありませんが、村には行った人もいます。東京へは、行ってみたいと思っています。
上田  宮城きゅうじょうを拝みたいと思います。
中川 卒業の記念旅行で伊勢神宮と大阪へ参りました。それから和歌浦に行って、生れて始めてママ海を見て、びっくりしました。
飯場 はじめて帆掛船に乗って漕ぎ出した時には、ブルブル体がふるえて……。(笑声)
山田 アレアレお家が海へ流れ出したなんていう人があって……。(一同大笑)
記者 山道を歩くことにかけては日本一の大原女さんも、海の上では、木から落ちたお猿さん同様ですね。
坂後 海を見たことのない人は、たくさんあります。
記者 会長さんに伺いますが、処女会(女子青年団)ではどんな行事をやっていられますか?
中川 敬老会などもいたして居りますが、一年二回の『弁論大会』は、私達としては、全く新しい型破りの催しでございましょう。
記者 どんな演題で話されるんですか。
中川 例えば『伝統の里から都会へ嫁ぐことを禁ず』とか『現代農村婦人としての行くべき道』といった演題で、十人位が代る代る立って、ずいぶん熱弁をふるいます。(笑声)
記者 それは素晴らしいですね。こんど拝聴させていただきますよ。(笑声)
飯場 それでは、一生懸命に演説のお稽古をしておきましょう。
記者 華やかな京の都で、新家庭を持ちたいなどとは思いませんか?
中川 やっぱり大原ほどよい所はないと思います。
記者 これは失礼ですが、あんな変った風俗をして京の街を歩いて、恥ずかしいといった気持はお感じになりませんか?
川上 わたしなんか小原女姿で歩くのを誇りにしています。ずいぶん珍らしげにジロジロ見られますけれども、京の四条通でも三条の橋の上でも、平気で歩きます。
上田 それはそうですとも……。
飯場 わたしら、小原女ですよと大手を振って……。(笑声)
記者 そう、その誇りがあってこそ、今日こんにちまでこうした特色のある風俗が保たれていたわけでしょうね。
中川 わたしたち小原女は、世の中が、どんなに遷り変りましても、また都会の生活がどんなに華やかでありましても、それを羨まないで、たとえ寂しゅうても、この静かな平和な山里で、一生涯せっせと、働き通したいものと存じます。
記者 お忙しい中を、いろいろと珍しいお話や、真剣な御生活振りをお打ち明け下さいまして、まことに有難うございました。名残はつきませんが、これで閉会といたします。

(記者記)
集まった皆さんの会話は、殆ど大原言葉(大阪とも違い京都に似ています)でしたが、中には、標準語の方もありました。で、ここでは大体、標準語本位とし、時に大原、八瀬の方言をそのままに用いました。


<旧字体、旧仮名遣いについて>
旧字体及び旧仮名遣いは、新字体に改めました。また、現在一般的に読みづらいと思われる漢字についても、ひらがな及びカタカナに改めるか(伯林→ベルリンなど)、ふりがなをかけています。
ただし送りがなは、現在一般的に使われているものとは違いがありますが当時のままに記載しています(暮らし→暮し、上がり→上りなど)。