チロリアン

2018.03.22

福岡の銘菓、千鳥饅頭で有名な千鳥屋の「チロリアン」を頂いた。
福岡人には馴染みぶかいお菓子だが、大人になって見るとこんなに可愛いデザインだったのかと目から鱗です。

せっかくなので、いただく前に写真撮影。
DSCF9544

袋も千鳥屋のイメージの紺色を保ちつつのチロリアンでとても良い。
DSCF9545

DSCF9546


 広瀬正という作家に出会ったのは、阪急宝塚駅にある本屋ブックファースト宝塚店。
 この本屋、むかし仕事の出張先にあったのでよく利用していたのだが、面積はそう広くないのに品揃えが良く、出張のたびに立ち寄るのが楽しみだった。平積みしてある文庫本があれもこれも「読んでくれ」と主張してくるようで、腕の中にどんどん本が重なっていく珍しい店。
 私は、一度好きと決めた本を何度でも面白く読めるというタイプなので、多読とは程遠く、本屋で初めて見る作家の本を手に取るということは皆無に等しい。新しい作家を読み始めるときは、なにかきっかけがあって…例えば好きな作家が面白いと書いていたとか、好きな作家と同じ系列とされているからとか(第三の新人とかですね)、書評を読んで興味をひかれたとか、そういうことが多いのだが、もっとも子供の頃は学校の図書館で、もっと自由に直感で本を選んで、手当たり次第に読んでいた。そういう子供に戻ったような選び方をさせてくれる本屋は、貴重で、なかなか出会えるものではない。
(つい2年ほど前、久々に立ち寄る機会があり相当楽しみにしていったのだが、品揃えが凡庸になってしまった気がして残念だった。売り場の担当の方が変わったのかもしれない)

 広瀬正は、若くして亡くなったのと、専業作家ではなかったせいで、作品はとても少なく、集英社文庫があたらしく文庫化してくれなければ、本屋に平積みされることもなく、私も一生読まなかったかもしれない。
 ジャンルはSFなのだが、星新一が解説で書いた”ノスタルジアの作家”、なんといっても、これほど的確かつ端的にこの作家を表現した言葉はないだろう。(これがどういう意味なのかは、どの作品でも良いから読めば分かります)

 
「マイナス・ゼロ」はタイムトラベル小説の傑作だと言われているが、私はSFに明るくないので、その方面の解説は専門家に任せるとして、これが彼の小説のなかで、いちばん読みごたえがある作品であることは間違いない。彼の持ち味である”ノスタルジアとSFの融合”の集大成と言って良いと思う。
 ひとつ残念なのは、ヒロインの伊沢啓子をどうにも好きになれないことくらい。でもこれは彼女だけの責任ではなく、中盤に出てくるもう一人のヒロインのレイ子が、ものすごく魅力的なキャラクターなので、ついつい伊沢啓子が霞んで見えてしまうせいでもある。好奇心旺盛で推理好き、頭の回転が早いレイ子は、たった60ページほどの登場にもかかわらず、主人公の俊夫の強力な助っ人となり、読者に強力な印象を残す。
 物語は、俊夫と伊沢啓子のラブストーリーがタイムトラベルの一つの仕掛けとなっているので、レイ子は途中で退場せざるを得ない運命なのだが、私が俊夫だったら、絶対に伊沢啓子なんかよりレイ子を選ぶのになぁと妙な感情移入をしてしまうほど、魅力ある美人探偵なのです。もっとも、伊沢啓子は設定上、レイ子がいくら魅力的だからといって、ハイそうですかと退けない立場なのは十分に分かるのだが。制約のないレイ子が、自由にのびのびとして見えるのは、仕方ないことなのかもしれない。
 でも、それなら無理にラブストーリー仕立てにしなくとも、伊沢啓子のポジションはなんなら彼女の父親とか、友人なんかでも良いわけで、それで十分面白い小説になったんじゃないかなぁ。ヒロインは中盤以降に登場するレイちゃんで十分だったんじゃないかなぁと、そんな風にも思えてくる。

 と、脱線してしまいましたが、広瀬正を読んだことがない人は、この「マイナス・ゼロ」ぜひご一読ください。
この他には「エロス」も心に残る作品です。


ソウルにはおしゃれなカフェがたくさんあります。
たまに可愛いカフェで可愛いデザートを食べると、テンションが上がりました。

手前は人参のケーキ。奥はレインボーカラーのクレープ。
IMG_9292

お餅。蜂蜜につけて食べます、美味しかった。
IMG_9249

シフォンケーキの上にストロベリークリームが掛けられたもの。美味しかったです。
友達は虹色のケーキ。全然知らなかったけど、虹色ケーキが流行っているらしいです。
IMG_9332

このお店はガイドブックに載っていたところで、私の滞在中に日本から遊びに来た友達と一緒に行きました。
IMG_9329

IMG_9330

薄緑のケーキは「サッポロストロベリー抹茶ケーキ」。札幌…?雪をイメージしたんでしょうかね。かわいいです。
IMG_9331

下にあるのが、私が食べたケーキ。「ナイアガラストロベリーケーキ」だそうです。
まさにクリームが「流れ掛けてある」という感じ。
IMG_9328

ここも、ガイドブックに載っていたお店。真冬にパッピンス(かき氷)、震えながら食べました。でも美味しかった。友達と二人では食べきれませんでした。
IMG_9354


今年(2017年)の1月から2月にかけて、1ヶ月ちょっと韓国はソウルに滞在していました。
食の記録です。

ポッサム(茹で豚)。ここのは、そば粉のガレットに包んで食べるもの。これが美味しかった。
IMG_8833

カルグクス。あさりの出汁がきいてます。
IMG_8848

おかゆ。いろいろな種類があるのですが、これは何だったかな、野菜がゆかな。
IMG_8970

IMG_8971

たまには洋食も。
IMG_9101

パスタ美味しかったです。
IMG_9098

IMG_9095

再びポッサム(茹で豚)。好きなのでついつい何度も行ってしまいます。ここはホンデ隣のハプチョン駅近く。
IMG_8921

IMG_8923

生牡蠣も。美味しくて食べすぎて、なんと当たってしまいました…(=_=;)
IMG_8920

ベトナム料理。
IMG_8959

図書館の食堂で、キンパ(海苔巻き)とラーメン。
IMG_8799

ユッケ。アワビ付き。梨の千切りがいいアクセントになって、これは本当〜に美味しい。
IMG_9231

IMG_9232

ユッケ丼。
IMG_9299

サムゲタン。有名なお店で観光客が大勢いました。スープにしっかり味がつけてあるのが珍しく、日本人は好きかも。
IMG_9291

サムギョプサル。のおかず。
IMG_9242

このおこわが美味しかった。
IMG_9246

蛸と野菜の辛味噌炒め。ご飯が進みます。
IMG_9298

そして、三たびポッサム(茹で豚)。前述のハプチョン駅近くのお店にまた行きました。これは定食で一人7,000ウォン(約700円)。ランチ時は近くのサラリーマンですごく混んでました。
IMG_9342

IMG_9343

IMG_9344

プデチゲ(部隊チゲ)。ハムやスパム、チーズやラーメンを入れるチゲでジャンキーなんだけど美味しくてよく食べます。
IMG_9112

IMG_9113

おかゆ。これは蛸と牛肉だったかな。
IMG_9442

IMG_9443

デザート編につづきます。


DSCF5070
オレンジジュース。

DSCF4883
お水。


 以前、作家の小沼丹氏のことに少し触れた。(「甘くないお菓子」参照
 そっけない甘さのなかに爽やかなあと味を残す、小沼氏の初期の中間小説風なのが私は大好きである。その中で、昭和32年から33年にかけて「新婦人」に連載された連作短編推理小説は「黒いハンカチ」は、いま一番かんたんに読むことができる氏の作品でもある。
 淡々としていながら、そこかしこにきらりと光るユーモア。<婦人雑誌の探偵小説>という軽妙な企画に小沼氏を引き合わせた新婦人の編集部には、拍手を送りたい。

 この推理小説の主人公、つまり探偵は、高台に建つA女学院の英語教師、ニシ・アヅマ女史。
 彼女は、空き時間に屋根裏で午睡をするのが愉しみというちゃっかり者であるが、友人から相談を受けたり、また事件に遭遇することがあれば、名探偵に変身する。
 「インド鶯」と呼ばれる同僚のヨシオカ先生(歌がすばらしく上手くまた色がとても黒いことから)、A女学院院長のタナカ女史(ソウセイジのように丸い手足を持つ丸っちい婆さん)、友人のスミス(のっぽで「蚊トンボ・スミス」に由来する)、ハムのように丸々と肥ったニシ・アヅマの女子大時代の師、ハムちゃんことハマムラ先生など、各回に登場する脇役の描写もゆかいである。

 私はミステリの世界には明るくないが、このニシ・アヅマ女史は、文庫版の解説を担当された新保博久氏によると「珍しい純粋観察型の探偵」ということになるそうである。彼女は目の前のものごとを常々観察していて、事件が起こると、記憶の中に糸口を見つけて暴きだす。殺人もあるが、窃盗や詐欺もある(未遂ふくむ)。ひとつの物語は数ページで終わるし、ニシ先生はあくまで飄々とした佇まい、読者が暗い気分になることはない。

 私は、好きな小説の初出は見てみたいので、掲載雑誌の「新婦人」を見つけると買うことにしている。今まで、まだ以下の三冊しか手に入れていない。

dscf6900
昭和32年6月号 「青いハンカチ」掲載
昭和32年8月号 「十二号」掲載
昭和32年12月号 「手袋」掲載

 青いハンカチ? そう、のちの単行本出版時にはタイトルにもなった「黒いハンカチ」は、発表時はなんと青かったのである。

dscf6890


 でも、青いハンカチなんて、普通あんまり使はないんぢやないかしら? それを一人の女が使つてゐるのを見て、そのすぐあとでこんどは一人の男の胸のポケットにもあるのを見た、となると何だか少し気になるんじやないかしら? それで、あたし、その男をよく見る気になつたの。よく見たら、スラックスとか、靴とか、顔とか、だんだん前の女が出て来る気がしたのよ。もし、青いハンカチがなかつたら、あたし、きっと気がつかなかったわ。 (新婦人6月号 「青いハンカチ」)

 小沼氏自身のあとがきにもあるように、単行本収録時には全体的にかなり手直しがされている。文庫版の編集部注によると、


 初出誌と突き合わせてみると、かなりの異同があることがわかった。文字遣いにしても、連載時のものは初版に比べるとずっと仮名書きが多い。これは、雑誌編集部で読者対象を考慮してひらいたものを、単行本化に際して元に戻したのではないかと考えられる。

 ということである。
 小沼丹の世界では、午後は午后であり、ここは茲であり、昼寝は午睡であり、ボールはボウルである。懐古調と思える文字遣いが、氏の手にかかるとまるでモダンで垢抜けた印象をつくる。この魅力が「新婦人」の誌上では分かりやすく直されていて、炭酸の抜けたサイダーのようになっているのは残念だ。

 「新婦人」は、文化実業社が出していた池坊の生け花雑誌で、表紙のタイトル上にも「いけ花の生活雑誌」「いけ花の女性雑誌」などと書いてある(号によって違う。書いていない号もある)が、内容は生け花一辺倒ではなく、ファッション、映画、生活の知恵や時事ネタなど、偏りなく載っている。
 巻末の「新婦人サロン」という読者投稿のページをひらくと、やはり華道を嗜む女性読者が多く、ニシ・アヅマ女史の名探偵ぶりを讃える投稿は、すくなくとも私の持っている三冊には見かけない。
 しかし、60年後、その小説のためだけにこの雑誌を買い求める人もいるのだから……。

 余談。この頃の新婦人の表紙は、新人の女優や歌手を画家の永田力氏(黒いハンカチの挿絵も担当)が描くというもので、8月号の表紙は、この年劇団民藝の「アンネの日記」の主役に抜擢された吉行和子さん。表紙ガールの特集ページでは、吉行淳之介氏が、妹についての記を寄せている。
 ご注目は、最後の「次回の予定」。吉行和子さんの親友として知られる富士真奈美さんである。偶然とはいえ、おもしろい。

dscf6894

dscf6897


July

2016.07.13

午後7時に窓からみえる葉山の夕焼け。

july


スモモ

2016.06.15

夏が来ました。

DSCF6409


2016.03.27

DSCF6291

DSCF6312

DSCF6289

魚も気持ちよさそうに泳いでいます。


 私が、祖母の本棚にあったこの本を手にしたのは、まだ小学校の低学年のころで、はじめは意味もよく分からず、とばしとばし読んだのだが、印象的な題名は子供心にも強烈に残った。
 幸福という名の不幸。
 幸福とは、本当は幸福ではないかもしれない。幸福という名前がつけられただけの、不幸なのかもしれない。
 全てのものごとは一様ではない、いくつもの顔を持っていて、人生にはどんなことも起こり、我々がその意図を掴むことは不可能である……。
 男女の出会いと別れを表面的なテーマとしながら、ひとつの明確な人生観を提示し、描く、この物語は、私に大きな影響をあたえた。

 榎並黎子は、十七の時に父親をなくし、大学に行くことを諦めて、あるイギリスの紅茶輸入会社の支社長、余語善三郎の秘書となる。若い黎子はやりがいのある仕事に充実した日々を送りながらも、幸せな恋愛を夢みる。そのうち偶然出会ったり、縁談が持ち込まれたりして、何人かの男と出会うが、いつも相手の粗が見えてしまい、うまくいかない。
 粗のない人間などいないということはもちろん黎子にも分かっており、自分自身にも愚かな面があることを冷静に自覚もしている。完璧さを求めているわけではないのに、うまくいかないのはなぜか。
 精神を病んで、黎子に好かれていると妄想する同僚の畑一郎。
 自分が家業を継がないことを負い目に思う真面目な千崎秀夫。
 博学で強引で男らしいが、出会ったばかりの黎子に高価なレインコートや300個もの卵を買い与える北畠尚之。
 姉夫婦の破綻した結婚生活を見て、結婚に諦めを持つ余語の義弟、水島茂。

 二十歳を過ぎた頃、黎子は高校のクラスメイトが白血病に冒されていると知り、見舞いに行った先で児島慎之介という青年と出会う。聡明で情熱的な慎之介に、黎子は恋をする。自動車免許を取るために、大切な外交官試験の受験を飛ばすような慎之介を、若い黎子は心の底から愛し、二人は結婚を約束するが、幸福な婚約期間のさなか、彼はダンプカーと正面衝突してあっという間に命を落とす。
 憔悴していったんは慎之介の後を追うことまで考えた黎子を、時間は残酷にも癒し、そして、また、次々に男たちが現れる。
 不自然なほど人間ができすぎた水木勝彦。
 動物や植物には細やかな神経を使うが、人間に愛情を持たない里見順三。
 航空工学の女性研究者と恋に落ち、黎子と付き合う前に去ってしまった伴良造。
 死んだ母親の遺体に添い寝する刑部照秋。
 ゴルフにしか人生の実感を見出せない、加賀美昇。
 人懐こく、人がいい岸見尚典。
 誠実で穏やかで、黎子が一瞬心から惹かれたにもかかわらず、失踪してしまった芳賀一好。
 黎子も既に二十代半ばを過ぎ、性懲りも無く出会いを求める旅に疲れを覚え始める。縁談は途絶えず、会うだけは会うが、どうしても男たちと縁が結ばれない。

 ある日、黎子は取引先の客から、あなたはずいぶん長く勤めていると感心され、支社長の余語が、ここまでくると辞められては不便で、こちらから手離さないようなところがある、と返したのを傍らで聴いて、静かな衝撃を受ける。何気ない余語の言葉に、なぜそれほど心を動かされたのか。黎子は、自分の中にずっと余語が住んでいることを、ようやく自覚する。
 余語には妻子があるが、妻は絶えず若い愛人と不倫をしていて、余語曰く、悪縁で結ばれている夫婦である。
 十八の黎子が余語と出会ってからの長い年月の中で、二人は何度か危うい緊迫感にさらされたことがあった。
 黎子がまだ仕事を始めて間もない頃、妻が小さな子供たちを家に置き去りにして愛人のもとへ出かけてしまい、余語と駆けつけ夕食を食べさせた時。
 二十代半ばになった黎子の近況を聞くために余語が宿をとってくれ、二人で箱根へ出かけた時。
 そして、余語の子供の話をしていて、余語が「自分は男だからか、子供さえよければいいとは思えない」と黎子を見つめ呟いた時。
 実際には二人とも常識を失うことはなく、そんな瞬間などなかったかのように、時は流れる。
 ただ、読者である我々は、黎子が余語を愛していることに、物語の序盤から気づいているのだ。黎子の縁談がうまくいかない背景には、いつも余語の影が見え隠れしているからである。
 黎子は男たちと会うたび、無意識に余語と比べている。唯一本当に愛した慎之介でさえ、黎子はどこかに余語の面影を見たからこそ惹かれたとも言えるのだ。ここに曾野綾子氏の筆力があり、黎子の人生に余語が直接関わることは、ここまで殆どないにも関わらず、彼女の人を見る目が、余語の生き方、考え方に大きく影響を受けていることで、自覚もないままに余語を愛していることを読者にさとらせるのである。
 黎子は、自分の想いを打ち明けたらどうなるのだろう、と考えるようになる。余語がその想いに応えられない場合、黎子を遠ざけるだろうし、また、月並みに愛人にすれば、黎子は失望するだろう。どちらにしても、彼女は余語を失うことになる。
 余語の紹介で、淡瀬守という傘メーカーの社長令息と見合いをするが、孤独から抜け出すことはできない。

 愛と絶望に苦しみながら、彼女は最後に大津幸一という青年と出会う。大津は酒飲みで、人生を諦めたような悲しい影を帯びた男であるが、黎子はその影に惹かれ、孤独を分かち合う相手としての縁をはっきり感じる。
 ところが、黎子が長い旅路の末にようやく小さな連帯感を感じた大津は、彼女に求婚をした数日後に麻雀屋の二階から落ちてあっけなく死んでしまう。黎子の返事を聞くこともなく。
 黎子は自分の運命が示すあまりの結末に打ちのめされ、衝動的に余語に電話をかける。自分の名を名乗れずに受話器を置き、呆然と佇む彼女に、察知した余語からすぐに電話がかかって来る。そして、彼は車を飛ばして黎子のところへ、やって来る。

 物語の結末は、全篇で、最も美しい。
 余語が語る言葉は悲しく、淋しく、しかしこの世の真理であると私は思う。



 乳色の霧は晴れかかっていた。気温が冷えて来たのであろう。五里霧中ではなく、冷やかな現実が次第に見えつつあることが感じられた。
 十分ほどで、一台の車がゆっくりと黎子の前で停った。余語は急いで家を出て来たらしい。アノラックを着て運転席にいた。
「乗りなさい。どこかへドライヴに行こう」
 黎子は黙って、余語の隣の席に坐った。
 余語は何も聞かずに車を出した。霧に洗われた後の町は、すべてがみずみずしく濡れていた。
「何があったのか知らないけれど」
 余語は穏やかに言った。
「君が今、人生に決定的な答えを出そうとしているんだとしたら、大きなまちがいだ」
「−−−−−」
「あらゆることが起る。しかし、その意味するところを、我々が掴むことは、恐らく不可能なんだ」
「ひと一人、死んでもでございますか?麻雀屋の二階から落ちて……」
「人間は皆、無駄な死に方をするよ。有効な死に方をできる人なんて、めったにいやしないんだ」
町を出はずれた畑の傍で、余語は車を停め、エンジンを切った。
「可哀そうに」
 余語は言った。それから、彼はごく自然に黎子の手をとった。
「僕も、あなたには、殆ど何もしてあげられない。只、僕の娘たちの未来を、あなたに見て、心をいためているだけだ」
 余語は黎子の手を、両方の掌にしっかりと握りしめた。
「あなたが、しあわせになって貰わないと困ると思う。それまで、くじけてはいけないと思う。絶望することは、やはりどう考えても思い上がりだという気がするな。何に対してかよくわからないけれど−−−何かに対する冒涜のような気もする。
 そうだ、こう言おうか。今の時代は絶望する方がスマートだから、だから僕はともかく、さし当り絶望したくないんだ」
 黎子は笑おうとした。
「今日、閉されたように見えても、明日は違うかもしれない。だけど、僕たちには明日が見えないから。これはよくできたカラクリですよ。明日に希望をつなげなんて、子供だましだ、エセ・ヒューマニストの言うことだ、という感じも僕にはよくわかる。僕らは、誰もが、その予感にだまされて一生を送るんだ。しかし、それでいいじゃないか。あなたにせよ、僕にせよ、決してそれ以上の眼力や才能のある人間じゃあないんですから」
「はい」
「いいことも、悪いことも、明日はどうなるかわからない。これは本当だよ。悲しいながら、滑稽ながら、本当ですよ」
「はい」
 余語の掌のぬくもりが、黎子を包んだ。一人の人間が、他の人間に救いの手をさし伸すことの、それは一つの儀式のような温かさだと黎子は思った。
 この手には一つの明確な意図がある。決して逸脱せず、人生のかなりの部分を諦めて生きることにしか、やはりどうしても美を感じられない人間の、悲しみがある。
 黎子は、余語の手を一つの祭壇と思った。その祭壇の前に、自分は今、ぬかずくような思いであった。
 余語に対する忠実さを全うしたいなら、余語の人生に対する美学を受け入れねばならない。
 只、こうして温かい手だけを与えられて……それだけで、信じ難い明日を信じる。それは単なる希望でもなければ人間の善意などという甘ったるいものでもない。それはむしろ、もっと乾いた人間の任務に近い。重く、暗く、苦い強烈な人間の存在のからくりに身を任せる。そして、その虚しさと途方もなさに、改めてうちのめされることだ。
 それでいいのだろう。この手からは、いつか決然と離れねばならない。余語らしい生き方を全うさせるためだ。その時、初めて、榎並黎子も又、一人で生き、一人で死ぬことのできる人間になる。
 それは不可能ではないのだろう。今は信じがたいことだが……。
 黎子は再び震え始めた。霧はますます晴れて、町の灯の上に、一つの意思の凝りかたまったような冷たい星が光っているのが見えた。


曾野綾子「幸福という名の不幸」